永く想うこと。
2003年1月5日新しい年はいつもドキドキする。
これから一年の間に、どんなことがあって、何を考えて、どういう風に感じるのか、そういうことが、とても楽しみ。
今年は特に、来年に待ち構えているコトがとにかく嬉しくてたまらないし、期待している。
まだ1月で、松の内も終わっていないというのに、どうして来年のことでウキウキしているかというと(笑)、サフィと一緒に住む予定になっているからです。
これについてのネガティヴ話はまた書き直すとして、まずはポジティヴ話から(^^;
都合があって、多分2月には引越ししていないといけなくって、そのためには今年の夏くらいから、本格的に部屋探しを始めないといけないはず。
それに付随する準備やら何やらを思うと、今年から始動するんだなぁ、となにやらウキウキしてしまうの。
高校時代から、大学を卒業するまで、……卒業しても、かな? それくらいずうっと長い間、わたしは「相棒」という言葉にひどく憧れを持っていた。
「恋人」という存在よりも、「相棒」という存在が欲しくてたまらなかった。
ひとりでいることに耐えられなくて、生涯をともにしていける、そんな人が欲しかった。
ずっと毎日一緒にいなくても、何よりも誰よりもお互いを最優先している、それも意識的にでなくて、無意識のうちに、そう思っているような、そんな存在が欲しかった。
そう呼ぶに値するような人を得ている友人や知人が羨ましくてならなかったし、どうしてわたしにはそんな人がいないのだろうと、いつも哀しく、寂しかった。
ところが、去年一年、わたしはそんな風に思ったことがなかった。
あったのかもしれないけれど、少なくとも、胸が痛むほどの記憶としては残っていない。
それはもしかしたら、サフィが近くにいたせいなのかしら、と思う。
サフィが「相棒」になったことは一度としてない。
そうなってほしいし、今でも願っているけれど、それはまだ違うのだと思う。
そうであると言い切れるほど、わたしには自信がない。
それでも、サフィが近くにいてくれたことは、わたしにとってはとても嬉しかったし、幸せだった。
わたしが男だったなら、真っ先にサフィにプロポーズをしていたと思う(笑)。
それは、「恋人」になって欲しいから、というのではなくて、「パートナー」として、サフィをわたしが必要としているから。
「行為」をサフィとしたいから、サフィが欲しいわけでも、好きなわけでも、パートナーになりたいわけでもない。
それは違う。
死ぬまで一緒にいられる。
わたしにとってのパートナーとはそういう意味で、だからこその「相棒」という意味でサフィに傍にいて欲しい。
ネガティヴ話になるのだけれど、来年の同居の話をすると、母が必ず、「その前にサフィに恋人ができたり、結婚したりするかもよ」と冗談半分につっこんでくるのだ。
その度にわたしは、「かもねー」と笑い飛ばしているけれど、実際に、目はちっとも笑っていない。
だって、それこそ、今のわたしにとっての最大の恐怖なのだから。
多分、数年先に、必ず、そういう時はやってくるのだと思う。
わたしは、わたし自身にはそれがありえないことをわかっているけれど、サフィについてはわからないから。だから、というよりも、むしろそれこそ普通であるのだろう。
そうして、その頃のわたしは、それを容易に受け入れられるようになっているかもしれない。(それを成長と呼ぶのか、鈍化と呼ぶのかは知らないけれど)
ただ、現時点でのわたしは、それを想像することすらできないでいるから。
サフィの家族に申し訳ないと思いながらも、わたしはわたしとサフィが死ぬまで一緒に在ることを望んでしまっている。
願ってしまっている。
わたしの存在が不幸だというのなら、その不幸だという感覚を感じさせないくらい、思い出せないくらい、サフィを幸せにしたいと思う。
こんな状態が、一体いつまで続くのだろう。
「(あらゆることに対して)恋愛感情が湧かない」と言い放つサフィに、わたしの気持ちがどこまで伝わっているのか、理解されているのか、まだずっとずっと、悩んだり、苦しんだりはするのだろう。
それでも、サフィがいてくれたおかげで、去年のわたしは、「相棒」という言葉に悩まされることはなかった。
あっても、のた打ち回って苦しむほどではなかった。
だから、それは素直に嬉しかったし、サフィに対して感謝もしている。わたしよりサフィに近い場所で勤務していて、お夕飯をサフィと食べる時に、必ず声をかけてくれる友人の存在も大きかったのだけれど。彼女にも感謝なんだよね、ほんとうに。
今年の夏くらいから、サフィのことを「相方」と呼べるようにはなるけれど、それが真の意味になるのはいつか、そうして、サフィがわたしの望む「相棒」になってくれる日が来るのか、それはわからない。
わからないけれど、サフィは、ひとりぼっちが嫌いで、寂しがりやで、甘えたさんなわたしに神様が与えてくれた宝物なのかもしれない。
そんな風に思えるようになった。
シルバーの指輪だって、きちんと手入れをしてあげて、きれいで清潔な場所に保管してあげないと、あっという間に黒くなって、汚くなってしまう。
だから、今年は、わたしがサフィに、それからサフィ以外のわたしの大好きな人たちに、一方的でない、きちんとした想いを伝えられるようにしていきたい。
独り善がりの愛情ではなくて、相手を思いやれる愛情を注ぎたい。
そうして、サフィを、皆を、永く想えたらいいと思う。
これから一年の間に、どんなことがあって、何を考えて、どういう風に感じるのか、そういうことが、とても楽しみ。
今年は特に、来年に待ち構えているコトがとにかく嬉しくてたまらないし、期待している。
まだ1月で、松の内も終わっていないというのに、どうして来年のことでウキウキしているかというと(笑)、サフィと一緒に住む予定になっているからです。
これについてのネガティヴ話はまた書き直すとして、まずはポジティヴ話から(^^;
都合があって、多分2月には引越ししていないといけなくって、そのためには今年の夏くらいから、本格的に部屋探しを始めないといけないはず。
それに付随する準備やら何やらを思うと、今年から始動するんだなぁ、となにやらウキウキしてしまうの。
高校時代から、大学を卒業するまで、……卒業しても、かな? それくらいずうっと長い間、わたしは「相棒」という言葉にひどく憧れを持っていた。
「恋人」という存在よりも、「相棒」という存在が欲しくてたまらなかった。
ひとりでいることに耐えられなくて、生涯をともにしていける、そんな人が欲しかった。
ずっと毎日一緒にいなくても、何よりも誰よりもお互いを最優先している、それも意識的にでなくて、無意識のうちに、そう思っているような、そんな存在が欲しかった。
そう呼ぶに値するような人を得ている友人や知人が羨ましくてならなかったし、どうしてわたしにはそんな人がいないのだろうと、いつも哀しく、寂しかった。
ところが、去年一年、わたしはそんな風に思ったことがなかった。
あったのかもしれないけれど、少なくとも、胸が痛むほどの記憶としては残っていない。
それはもしかしたら、サフィが近くにいたせいなのかしら、と思う。
サフィが「相棒」になったことは一度としてない。
そうなってほしいし、今でも願っているけれど、それはまだ違うのだと思う。
そうであると言い切れるほど、わたしには自信がない。
それでも、サフィが近くにいてくれたことは、わたしにとってはとても嬉しかったし、幸せだった。
わたしが男だったなら、真っ先にサフィにプロポーズをしていたと思う(笑)。
それは、「恋人」になって欲しいから、というのではなくて、「パートナー」として、サフィをわたしが必要としているから。
「行為」をサフィとしたいから、サフィが欲しいわけでも、好きなわけでも、パートナーになりたいわけでもない。
それは違う。
死ぬまで一緒にいられる。
わたしにとってのパートナーとはそういう意味で、だからこその「相棒」という意味でサフィに傍にいて欲しい。
ネガティヴ話になるのだけれど、来年の同居の話をすると、母が必ず、「その前にサフィに恋人ができたり、結婚したりするかもよ」と冗談半分につっこんでくるのだ。
その度にわたしは、「かもねー」と笑い飛ばしているけれど、実際に、目はちっとも笑っていない。
だって、それこそ、今のわたしにとっての最大の恐怖なのだから。
多分、数年先に、必ず、そういう時はやってくるのだと思う。
わたしは、わたし自身にはそれがありえないことをわかっているけれど、サフィについてはわからないから。だから、というよりも、むしろそれこそ普通であるのだろう。
そうして、その頃のわたしは、それを容易に受け入れられるようになっているかもしれない。(それを成長と呼ぶのか、鈍化と呼ぶのかは知らないけれど)
ただ、現時点でのわたしは、それを想像することすらできないでいるから。
サフィの家族に申し訳ないと思いながらも、わたしはわたしとサフィが死ぬまで一緒に在ることを望んでしまっている。
願ってしまっている。
わたしの存在が不幸だというのなら、その不幸だという感覚を感じさせないくらい、思い出せないくらい、サフィを幸せにしたいと思う。
こんな状態が、一体いつまで続くのだろう。
「(あらゆることに対して)恋愛感情が湧かない」と言い放つサフィに、わたしの気持ちがどこまで伝わっているのか、理解されているのか、まだずっとずっと、悩んだり、苦しんだりはするのだろう。
それでも、サフィがいてくれたおかげで、去年のわたしは、「相棒」という言葉に悩まされることはなかった。
あっても、のた打ち回って苦しむほどではなかった。
だから、それは素直に嬉しかったし、サフィに対して感謝もしている。わたしよりサフィに近い場所で勤務していて、お夕飯をサフィと食べる時に、必ず声をかけてくれる友人の存在も大きかったのだけれど。彼女にも感謝なんだよね、ほんとうに。
今年の夏くらいから、サフィのことを「相方」と呼べるようにはなるけれど、それが真の意味になるのはいつか、そうして、サフィがわたしの望む「相棒」になってくれる日が来るのか、それはわからない。
わからないけれど、サフィは、ひとりぼっちが嫌いで、寂しがりやで、甘えたさんなわたしに神様が与えてくれた宝物なのかもしれない。
そんな風に思えるようになった。
シルバーの指輪だって、きちんと手入れをしてあげて、きれいで清潔な場所に保管してあげないと、あっという間に黒くなって、汚くなってしまう。
だから、今年は、わたしがサフィに、それからサフィ以外のわたしの大好きな人たちに、一方的でない、きちんとした想いを伝えられるようにしていきたい。
独り善がりの愛情ではなくて、相手を思いやれる愛情を注ぎたい。
そうして、サフィを、皆を、永く想えたらいいと思う。
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